青空まであと一歩 最終話 / 叶探偵事件file
やがて遙かなる虹
空は暗く、無意味に広がっていた。
見通すべきものなど何もない。地平線を越えて果てまで続いている。ただそれだけの、つまらない光景でしかなかった。
喧噪から離れ、黒雲と冷たい雨に見下ろされながら街を歩む。スーツ姿に帽子を被った中性的な人物──叶探偵は、【白井花】と【北楯さくら】を連れて黙々と道を進んでいた。
「──というわけで、猫ちゃんの目撃情報はあったんですよ~。でも……」
「話してた人達を見失ってしまって。詳しい話は聞けませんでした」
公園を訪れ猫の行方を捜していた二人だったが、その影を踏むことしかできていない。公園を出た後は【新川保知】と合流し、虹村家の調査を終えたところで突然叶探偵から「みんなでエルを迎えに行こう」と連絡を受けたのだ。
「……狙い澄ましたみたいなタイミングでしたね」
「偶然だよ。他の臨時助手君達の活躍で、随分楽をさせてもらったおかげでもあるがね」
淡く窺うような保知の視線を受け流し、叶探偵は無意味にも思える散策を続ける。遙の宝物が紛失していることを伝えてから、探偵は延々と足跡を刻み続けていた。
向かう先は誰にも知らされていない。だが駅から少しずつ離れているのは確かだ。
「狙い澄ましたと言えば、古本屋さんに来たときもですよね~?」
花が曇天に眉をひそめながら呟く。嵐の名残は未だ色濃く、傘を差しても雨が服を濡らした。染み込む寒気に震える花を横目に見遣り、叶探偵は「あれは君達が先回りしたんだろう」と苦笑する。
「【佐波里玄盛】君と花君が、まさか先に絵本を受け取っているとは思わなかった。内容を確認する手間を省いてくれたことに感謝しよう」
叶探偵が探し求めていたのは、遙の父が描いた絵本だった。
天国に旅立った犬と、その飼い主だった少女の物語。喪失と再生を描いたその絵本は、今は叶探偵が抱える鞄の中に保管されている。
絵本と紛失した遙の宝物。公園での目撃情報。
ばらばらになったパズルのピースを繋ぎ合わせ、どんな絵が浮かび上がったのか。誰かが尋ねるよりも早く、叶探偵は唐突に歩みを止めた。
中野駅から少しばかり離れた、閑静な街並みの中にひっそりと佇む霊園。入り口には【中村善次郎】と佐波里が怪訝そうな顔で立っている。特に善次郎は叶探偵の行動を訝しんでいるようだった。事実彼がこの墓地を調べたとき、エルの姿は見当たらなかったのだ。
探偵からの連絡を受けて合流した佐波里と並んで、善次郎は霊園を守る門番のように立ち尽くしていた。その姿に軽く手を振り、叶探偵は穏やかな口調で語りかける。
「中村君、佐波里君。待っていてくれてありがとう。猫にチョコはあげられないが、再会は全員で祝いたいからね」
「どういうことだぁ? この墓地にはエルはいなかったって聞いたけどねえ」
「『そのときはいなかった』というのが正しい言い方だね。嵐も過ぎ去る頃だ、おかえりなさいを伝えに行こうじゃないか」
佐波里の疑問に淡い微笑で応じ、探偵は迷いのない足取りで霊園の中を進んでいく。誰かから事前に場所を教わっていたのか、数分と経たない内に虹村家の墓へと辿り着いていた。墓の前にはプラネタリウムから駆けつけた【リク】と【天野輝】、そして【千明聡彰】が所在なさげに佇んでいる──どうやら三人とも探偵から呼び出されたらしいが、その目的までは知らされていないようだった。
丁寧な清掃の行き届いた墓石の前に、冷たい時間が横たわっていた。
限りあるものを迎え入れ、送り出すための時間だ。誰にも平等に訪れる、変化のための時間。その訪れを待って、臨時の助手達は静かに息を殺していた。
雨が傘を叩く音だけが響く──ぱらぱらと断続的な音色に耳を澄ませていると、少しずつ心が磨かれていくような錯覚に陥った。変化に対して全身の神経が鋭敏になっていく。
世界が変わっていくことは止められない。
愛情や、命ですら失われていくのだから。
どれだけ強く握りしめても、両の手からこぼれ落ちてしまうのだ。変わらないで欲しいと願うものから順番に。
「……これ、は」
最初に気付いたのは天野だった。隣に立っていたリクに軽く目配せする。リクが沈黙と共に視線を動かすと、木立の陰ががさりと揺れるのが見えた。弱々しく震えながら、白い影が滑り出る。
千明が細く息を呑んだ。
雨に打たれ、衰弱しきった姿。瞳はほとんど閉じかけている。ほとんど何も見えてない可能性もあった。
四肢は泥で汚れ、震えながら地面を掴む。よろけて倒れそうになったところでかろうじて踏みとどまり、白猫──エルは叶探偵達の前に姿を現した。
その口に、鍵型のバッジをくわえて。
「……プラネタリウムに、おもちゃの欠片が落ちてたんです。キラキラしてた……」
リクが微かに震える声で呟く。
叶探偵は緩く頭を振ると、一歩だけエルへと近付いた。
「……ようやく会えた。初めまして、そしておかえり、エル。君ならばいずれここに来るだろうと思っていたよ」
「──この猫は、大好きだった遙ちゃんの欠片を拾い集めてた。追憶の旅をしてた……そうなのか? 探偵さんよ」
「詩的だな。だが概ねその通りだ、千明君。エルは旅をしていた。追憶と巡礼の旅を。臨時助手の諸君、エルが虹村家を飛び出した理由はね──」
──『虹村遙の人生を支えた全てのものに、感謝を伝えるため』だったのさ──。
「エルと会えなかったのはそれが原因だよ。旅人を追っても影を踏むことしかできない。旅人と出会うためには、待たなければいけなかったんだ」
「……だから探偵さんは、ここで待つことにしたんですね──遙ちゃんが眠る、このお墓で」
さくらが囁く。声には涙の色が混じっていた。隣に立つ花もまた、雨粒に似た涙を両目に浮かべている。
「ああ。君達が調査してくれたおかげで推理できた。エルは遙ちゃんがかつて愛した場所に、遙ちゃんの宝物を捧げていた。きっとそれが、エルにとっての果たすべき使命だったんだ。そうだね? ──虹村遙ちゃん」
──ざわりと。
助手達が震える。
いつの間にそこに立っていたのか、墓石の前に少女が立ち尽くしていた。
歳はまだ十歳前後。小学校を卒業してはいないだろう幼い容貌。緩く広がる髪はふわりと広がっている。淡いグリーンのワンピースから伸びた手足は、嵐の街を覆う冷気にも触れていない。
もう傘を差す必要もない、その姿。
雨は彼女を素通りしていく。
震える手を伸ばして、泣き笑いの表情で──虹村遙は、今にも倒れてしまいそうなエルの体に手を伸ばした。
指先が、その白い毛に触れることはなくても。
近付くことに意味があると信じているかのような手つきで。
「……ありがとうございます。探偵さん。私が、エルにお願いしたんです。もし何かあったら、お世話になった人達にお礼を言ってねって。私は……きっと、何も言えなくなっちゃうからって……」
──それは、他愛ない子供の口約束だったはずだ。
伝わることなど信じていなかった──伝わらないから安心して託すことができた。そういった類の願いだ。
だが遙は見誤った。現実の無慈悲さと、エルとの間に生まれていた絆の強さを。
言葉が通じていたわけではない。だからこそエルは、彼自身の意志で旅をしたのだ。
遙が訪れた場所を巡って、遙の宝物を配り歩いて。
遙が存在した証を刻み込むかのように。
「エル……ありがとうね。いっぱい頑張ってくれたんだね……」
嗚咽に震える少女の声を聞き届け、白猫はゆっくりとその場に寝転んだ。雨が体を冷やすことも構わず、ごろごろと喉を鳴らす。だがその呼吸も少しずつ間隔が延びていき、やがては絶えようとしていた。
助手達は思い思いの表情で、今まさに旅を終えようとしているエルを見詰める。
涙を押し隠し、あるいはただ痛ましく。
ひどく寂しげに、惜別を瞳に浮かべて。
「──ごめんね、エル。大好きだったよ。一緒にいた時間、忘れないから。エルがいたから私、注射も点滴も我慢できたんだよ──」
──だからこれは、私からあなたへする、最後のお願い。
「──幸せになって、エル。私が生きるはずだった時間、ほんの少しだけどプレゼントするから……」
少女の手が、倒れた白猫の背中に重なる。
特別な何かが起きることはない。虹村遙の手が光り出すこともなければ、天使が鐘を鳴らす音も聞こえなかった。触れられないものに手を伸ばしただけで、遙は満足そうに微笑んで消えていった。跡形もなく、余韻もない。
嵐は過ぎ去り、風は穏やかに吹き抜ける。雨上がりの空には晴れ間が覗き、微かな陽光が霊園に佇む者達を照らしていた。
奇跡は起きない。
だから臨時助手達が目にしたのは、起きて当然の出来事だけだった──。
■ □ ■ □ ■
──中野駅の喧噪から微かに距離をとる小さなビル。
その一階には、空色の壁に包まれた喫茶店がある。
「だからあの後、雲型のチョコが一個なくなってたんだってば!」
「はいはい、どうせあなたが食べちゃったのを忘れてただけでしょ」
「木の実まで食べようとしていたらしいしね」
「探偵さんまでそういうことを! あれはだからきっと──」
喫茶はいつもと変わらず、優しい賑やかさに満ちていた。
店先のよく日の当たる場所に、白い猫が昼寝している。喫茶の店長を務めるサモエドの十がいない日に限って現れる白猫が、一度大きくあくびをした。
首輪には鍵型のバッジが結ばれている。
猫は小さく鳴いてから目を開くと、晴れ渡る青空を見上げた。
視線の先には淡い虹。
誰かの願いを見守るかのように、空の架け橋が浮かんでいる──。
担当:佐賀屋火花
――Ozの世界へようこそ。
依頼文は、青色喫茶Ozの掲示板に貼り出してありますよ。
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あなたの一言で、Ozの世界は変わってゆきます。その未来を見たければ、またここを訪れてみてくださいね。
