チェシャネコ『ないた ねこ』

「先生、幸太はどうですか? ……苦しんではいませんか?」
「お母さん。落ち着いてよく聞いてください」
「はい。もちろん……何を言われても、受け入れる覚悟はできています」
「幸太くんの脳を圧迫していた腫瘍が、――跡形もなく消えました」
「……、――えっ?」
「奇跡としか言いようがありません。CTスキャンの結果も異状なし。現在、順調に快方に向かってます。――お母さん、幸太くんは、……助かったんですよ。おめでとうございます」
「ああ、……ああ、神様。先生……ありがとう……ありがとうございます」

「見廻りの看護師からの報告ですが、幸太くんは昨晩、寝ながら――泣いていたそうです」
「……『泣いた』?  あの子、『泣いた』んですか!? あの子にも感情があるんですか!?」
「これまでも感情が無かったわけではありません。ただ、脳の働きが腫瘍に阻害されていて、喜怒哀楽を表情に出せなかっただけです。事実、幸太くんは、あなたが悲しんでいれば、自分も哀しむようなそぶりを我々に何度も見せていましたよ」
「そう……だったんですね。わたしは母親失格です。そんなことにも気づけなくって……」
「もう大丈夫ですよ。幸太くんはこれから、誰でもはっきりと分かるぐらい感情表現ができるようになります」
「泣くんですね」
「それだけじゃない。声を上げて笑えるようになります」
「夢みたいです。でも、どうしてこんなことに……」
「これは非科学的な話になってしまうのですが、諸外国で、あたりはばからず泣き続けた男性が、すっきりして病気も治したという例があります。医者としてこんなことを言うのもなんですが、個人的には、涙にはそのような不思議な力があるのだと思っています」
「良かった……これでまた、あの子にこの本を……読んでやれるんですね……」
「ええ、その本のタイトルにもあるとおり、幸太くんはこれから100万回も生きることができますよ。――きっと夢を見ていたのでしょう。 怖い夢もすぐに忘れます。夢の世界で出会った人もすべてね。これからはあなたが見守ってあげてくださいね」

医者が見上げ、母親が涙を流しながら視線を向けた窓の向こうに、一匹の白い蝶が、軽やかに羽ばたいていった。

END

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