青空まであと一歩 第一話 / 叶探偵事件file
そして虹が来る
中野駅の喧噪から微かに距離をとる小さなビル。
その二階から降りてきたのは、中肉中背の一人の男だった。グレイのスーツとベスト、白いシャツに赤いネクタイ。中折れ帽を目深に被り、表情は隠れている。口元に浮かぶ薄い微笑みだけが空気に触れているような風貌だった。
ビルの二階に探偵事務所を構える男。叶探偵と呼ばれる人物。
男性と認識されているが、本当の性別は誰も知らない。
年齢や生まれ、本名に至るまで、全てが秘密の暗箱に隠されている──誰もが知る事実として、彼はいくつもの奇怪な事件を解決に導いてきた、日本有数の名探偵だ。
叶探偵は青色喫茶の扉を開くと、路地に面したテーブルに腰を下ろす。時計の針は十一時を指していた。開店直後のこの時間に、いつもならまだ客の姿はない。
そのはずだったのだが。
叶探偵の隣に、幼い少女が座っていた。
歳はまだ十歳前後といったところか。少なくとも小学校を卒業してはいないだろう。緩く広がる髪は肩口に届き、耳に触れる髪だけが少し長い。淡いグリーンのティアードワンピースからは、やや不健康なほどに白い四肢が伸びていた。
隣に座った叶探偵の横顔をじっと見詰めて。
少女は、意を決したように口を開く。
「──探偵さんの依頼料は、いくらですか?」
「出し抜けだね」
苦笑して応じる。相手が子供だったとしても、依頼人を無視する探偵などいない。
店員の青木が叶探偵の前にコーヒーを置いた。二階から降りる前に注文しておいたものだ。微かに首を傾げてから、彼は少女へと視線を向ける。
「……依頼の内容によるかな。お金は必要ないと言えれば格好いいのかもしれないが、私にも生活があるのでね」
「お金は大事です」
真面目ぶった少女の口調に、叶探偵は小さく笑った。
幼い子供だが、精神は大人だ。少なくとも大人になろうとしている。
「内容によるって、どれぐらい変わるんですか」
「物凄くとしか言えない。スカイツリーから一メートル分の高さを奪った犯罪奇術師との対決では、このビルの二階を丸ごと買い取れるぐらいのお金を貰ったよ」
「じゃあ、猫探しはいくらですか」
声に焦りを滲ませて、少女が子供向けのスマートフォンを取り出す。画面に映し出されていたのは一匹の白猫だった。
「……わたし、虹村遥。この子はペットのエルです。一週間前に家から逃げて、どこかに行っちゃって……絶対この近くにいるはずなんです」
「お年寄りにしては元気だね」
叶探偵が呟くと、少女は驚いたように目を見開いた。彼女が何か言うよりも早く、「当てずっぽうだよ」と手を振って告げる。
「顔まわりに白髪も多いし、後ろ足も痩せている。そういう猫だっているかもしれないと思うかな? たとえ本当は若かったとしても、私が恥を掻くだけで済むしね」
「……それでも、凄いです。叶さんなら絶対、エルを見つけてくれます」
お願いします、と頭を下げて。
少女は今にも泣きそうな声で訴えてくる。
「さっきテレビで見ました。三日後には台風が来るって。中野も大雨になるって。エルはもうおじいちゃんだし、病気もあるから、外にいたら危ないんです。だから……」
そこまで言い募ったところで、少女は声を詰まらせる。
静かにコーヒーを飲み終えると、叶探偵はゆっくりと席を立った。店の入り口まで歩いて行くと、一度だけ少女へと振り返る──ぽかんとしている子供に、せめて優しさの温度だけを微笑みで伝えて。
「依頼料は、エルが見つかったら必ず動物病院に連れて行くこと。飼い猫が外の世界で生きるのは辛いことだからね。払いきれなかったら、お小遣いを貯めてお父さんお母さんに返すんだ。できるかい?」
「──できます! 絶対、動物病院、行きます!」
「なら約束だ。私はエルを探し出すよ。嵐が来るまでに、ね」
告げて──ゆっくり、階段を上り始める。少女の視線を背中に感じるが、もう振り返ることはない。
事務所に戻って手帳を開き、知人の電話番号を確認した。人集めの得意な人間で、何度か世話になったことがある。
ペット探しにもコツやノウハウはあるが、何より有効なのは単純な人海戦術だ。使える目が多ければ多いほど、街の隅々にまで注意が行き届く。
「……助手を使うのなんて久し振りだが。さて、何人集まってくれるかな……」
捜査の手伝いをする者を募集し、彼らへの指示を書き残して。
叶探偵は一匹の猫を探し出すため、中野の街を捜索し始める。
担当:佐賀屋火花
――Ozの世界へようこそ。
依頼文は、青色喫茶Ozの掲示板に貼り出してありますよ。
ぜひ、あなたのお力をお貸しください。
あなたの一言で、Ozの世界は変わってゆきます。その未来を見たければ、またここを訪れてみてくださいね。
